大村藩の医者、長与中庵の家に生まれます。専斎が4歳の時に父が亡くなり、祖父の俊達に育てられます。
俊達は、天然痘の予防など大村藩医として大活躍した医者であり、専斎のその後の活躍は、この祖父の影響が大きかったと思われます。
専斎は、五教館で学んだ後、大坂にあった緒方洪庵の適塾に通い、蘭学を学びます。6年後、長崎に行き、オランダ商館医ポンペの教えていた医学伝習所に入り、医学の勉強を始めます。
明治となり長崎医学校ができると、専斎は学頭として、我が国最初の医学校の設立に大変力を注ぎました。
明治4年には、伊藤博文の推薦で、アメリカやヨーロッパの医療制度の視察に行き、帰国後、医務局長に就任します。この時作った「医制」は医者の免許制度や医学教育など現在にも通じるもので、近代医療制度は、専斎の力によるところが大きかったと言えます。
明治8年、衛生局初代局長に就任、今では普通に使われるこの「衛生」という言葉は、この時専斎が考えたものです。衛生局では、天然痘などの伝染病予防を進めていきます。
明治10年、日本にコレラが上陸・流行するようになってからは、菌が広がらないよう、上下水道の整備を進めていきます。
専斎は、明治35年(1902年)に65歳で亡くなります。
専斎が大村で過ごした屋敷の一部は「宜雨宜晴亭」と呼ばれ、国立長崎医療センター内に移設され、残っています。