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正使 伊東マンショ
日向国(宮崎)都於郡(とのこおり)出身。
大友宗麟の遠戚にあたる。
四人の少年の中で最年長。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。
布教活動の長旅で体を壊し、1612年、四十三才で長崎にて病死する。 |
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正使 千々石ミゲル
有馬領千々石出身。
釜蓋(かまぶた)城主千々石直員(なおかず)の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
1601年頃、イエズス会を脱会。清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕える。
1633年死去。 |
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副使 原マルチノ
大村領波佐見出身。
原中務(はらなかつかさ)大輔純一の子。
四人の少年の中で最年小。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
1608年長崎で司祭となる。
布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。
1629年マカオにて病死する。 |
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副使 中浦ジュリアン
大村領中浦出身(現在の西海市)。
中浦領主中浦ジンクロウの子。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。
徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、六十四才で長崎西坂にて殉教する。 |
一行は長崎港を出港し、マカオ、マラッカ、インド、喜望峰をまわり2年半かかってヨーロッパに渡り、ローマ教皇と掲見しました。そして出発してから8年5ケ月という大旅行のすえ、天正18年(1590年)帰国しました。少年達は、活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献しました。彼らが長崎港を出帆して400年目を記念し、4少年の偉業をたたえるため、顕彰像がたてられました。
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