文明6年(1474年)、島原の領主有馬肥前守貴純(たかすみ)は2000余の大軍を率い、諫早、本野を経て大村に来襲しました。大村氏16代純伊(すみこれ)軍は700の手兵で防戦しました。はじめ、有馬勢は大村方を小勢と見て強引に戦いをいどみましたが、先陣の長岡、庄の勢が奮戦して敵を追い返すこと4度、さしもの敵も攻めあぐんでいました。その時第3陣の鈴田道意が、突如敵方に寝返ったため形勢は逆転し、大村方の将兵の多くは壮烈な戦死をとげました。純伊(すみこれ)は危うく難をのがれ、郡岳から松原、折尾瀬、佐々を経て玄海の孤島加々良島へと落ちのび、6年後の文明12年(1480年)旧領奪回を果たしたのですが、田原の中に残る長岡越前、庄左近太夫一族の墓が、今なお戦国の昔をしのばせます。 |