明暦3年(1657年)のある日、長崎に住んでいた池尻理左衛門は、大村から遊びに来ていた知人から次のようなことを聞きました。
「郡村の矢次という所に、天草四郎の生まれ変わりという神童が現れてのう。その神童は萱瀬村の山奥に不思議な絵を隠し持って、実に奇妙な術を説くんだそうじゃ。もしおまえさんがこの術を見たければ、そこにつれていってもよいが、どうじゃな。」
こう語ったのは大村の郡村に住む兵作という男でした。話を聞いた理左衛門は、すぐにキリシタンだとわかりました。そこで、聞き流しておいては大変と思い、すぐに町役人に知らせました。そして、その話を受けた長崎奉行は早速、兵作を取り押さえました。
長崎奉行からただちに使いが大村へ飛び、藩内にキリシタンがいるらしいという知らせに、大村城内は大騒ぎになりました。そして連日、兵作の妻子や近親者、萱瀬の山中の隠れ家に集まっていた者たちが次々と捕らえられました。天草四郎の再来と呼ばれた少年は、名を六左衛門といい、その家族が中心となって、ひそかにキリスト教の信仰を続けていたのです。それは、長年の間に日本の習俗などと交じりあって、まじないのようになり、その力で多くの信者を引きつけていました。信者たちが集まった場所は、萱瀬の仏の谷にある十畳敷きほどの岩陰でした。
事件は日を追うごとに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村へと広がり、ついに逮捕者は603名にものぼりました。取り調べの結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、取り調べ中病死した者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。打ち首になる者はあまりにもその数が多かったため、各地に分けて処刑することとなりました。大村では131名、長崎118名、佐賀37名、平戸64名、島原56名とそれぞれの地で処刑されました。
大村で処刑されることとなった131名は、刑場となった放虎原に引き立てられました。途中、妻子、縁者との最後の別れが許されました。その場所となった西小路には、今も「妻子別れの石」が残っています。刑場に着いたキリシタンたちは、四列に並べられ、次々に首を打たれていきました。切られた首は、処刑されたのち約20日間も、見せしめのため大曲の獄門所で、さらし首にされました。その後さらされた首は、原口にあった榎の根元に、胴体は処刑後まもなく桜馬場の道路脇に、それぞれ埋められました。現在その地は首塚跡、胴塚跡として伝えられています。
この事件を「郡崩れ」といい、これをきっかけとして、事件のあった一帯からは、キリシタンの姿はまったく消えてしまいました。 |