大村観光ナビ
ご利用方法 サイトマップ
大村観光ナビ 大村の歴史紹介ページ
HOME > 大村の歴史 > キリシタン大名大村純忠 >キリシタン禁教「禁教と大村藩」
大村の花
おおむらの紹介
大村観光リンク集
大村の歴史
キリシタン大名 大村純忠

キリシタン禁教
 純忠の死後、豊臣秀吉により伴天連追放令が出され、続く徳川幕府によりキリスト教の信仰が禁止されます。この流れの中、大村でも純忠の子、大村喜前により禁教令が出されました。しかし、禁教下においても、キリスト教の信仰を続けていた人々がおり、明暦3年(1657年)「郡崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン大発覚事件が起き、603人が捕まり、406人が処刑されました。市内には、この「郡崩れ」に関する史料が多く残されています。
放虎原殉教地(斬罪所跡)

 131人が一斉に処刑された放虎原殉教地は、県立大村工業高校の右手前方にあり、銅板のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられています。
【地図を見る】⇒ 放虎原殉教地(斬罪所跡) 
キリシタン
大村純忠
キリシタン時代
キリシタン禁教
放虎原殉教地
胴塚跡
首塚跡
獄門所跡
鈴田牢跡
田下のキリシタン様式墓碑
今富のキリシタン墓碑
妻子別れの石
大村出土のメダリオン 「無原罪の聖母」
仏の谷
大村牢跡
オランダ牢跡
大村市原口郷出土のキリシタン墓碑
宝生寺の教会跡
禁教と大村藩
郡崩れ
胴塚跡
胴塚跡  桜馬場の国道添いの西側に胴塚跡があり、131人の胴体は2カ所に穴を掘り埋めたと伝えられています。
  150m南に青銅の祈りの像が建っています。
【地図を見る】⇒ 胴塚跡 
首塚跡
胴塚跡  胴塚より北方約500m離れた榎の根元に殉教者131人の首を埋めたと伝えられています。
 首と胴を別々に埋めたのは、キリシタンの妖術で連ながるのを恐れたためといわれます。
 今は何代目かの榎のそばに立派な殉教顕彰碑が建てられています。
【地図を見る】⇒ 首塚跡 
獄門所跡
獄門所跡  郡崩れの際、処刑された131人の首を塩づけにして、ここで20日間晒(さらし)首にし、世人へのみせしめとしました。
 今は白亜の無原罪の聖母像が建てられ、遠い昔の殉教者たちの霊をやさしく慰めています。
【地図を見る】⇒ 獄門所跡 
鈴田牢跡
鈴田牢跡  元和3年(1617年)より同8年まで、外国人宣教師ら30数名を閉じ込めた牢屋の跡です。
 周囲も天井も竹の柱で囲まれた鳥籠のような部屋で、広さは奥行6.6m、間口4.6m、横に寝ることも身動きさえ自由にはできなかったと伝えられます。
 2名牢死、スピラノ神父ら25名は元和8年9月長崎へ護送され、翌10日西坂において、フランコ神父ら8名は12日放虎原(ほうこばる)で殉教しました。
【地図を見る】⇒ 鈴田牢跡 
田下のキリシタン様式墓碑 市指定史跡
田下のキリシタン様式墓碑  田下の入口にあり、承応2年(1653年)建立の平庵(ひろいおり)型墓碑が2基見られ、仏教の戒名を1基は本体に、1基は側塔に刻む特徴をもつ珍しいものです。
 背後の野面墓1基は、キリシタン様式墓碑と同一戒名で、これは弾圧にたえ難く後方に仏式の墓を建てたものと思われます。
【地図を見る】⇒ 田下のキリシタン様式墓碑 
今富のキリシタン墓碑 県指定有形文化財
田下のキリシタン様式墓碑  戦国末期における大村の重臣、一瀬越智相模栄正(おちさがみえしょう)の墓です。
 栄正は領主大村純忠とともに、永禄6年(1563年)キリシタンの洗礼をうけた一人ですが。天正4年(1576年)83才で没しました。
 その子一瀬治部大輔(じぶだゆう)は、父のため頭頂部に干(かん)十字架を刻んだかまぼこ型の墓碑を建てましたが、禁教の取締りが厳しくなったため、墓碑を縦に起こし、前面に日蓮宗の戒名を刻んで、仏教徒であることを装ったのではないかと思われます。
 キリシタン墓碑としてはわが国でも最も古いようで、またかまぼこ型の起立墓碑は全国でも珍しいといわれています。
【地図を見る】⇒ 今富のキリシタン墓碑 
妻子別れの石
妻子別れの石  受刑者たちは、ここで妻子と水盃を交して最後の別れを告げ、殉教地(斬罪所)へひかれていきました。
 現在別れの石数個が残っており、俗に「涙石」とも呼ばれ今でも苔が生えないと伝えられています。
【地図を見る】⇒ 妻子別れの石 
大村出土のメダリオン 「無原罪の聖母」  県指定有形文化財
大村出土のメダリオン 「無原罪の聖母」  太陽を背に頭上に7星をめぐらし、弦月を踏んで立つ「無原罪の聖母」のメダリオン(大型メダル)です。
  昭和7年大村高校新築工事の際、寛永16年(1639年)の墓碑銘の大村家家老宇多氏の墓から出土したもので、スペイン王カルロス一世の代(1516年〜1556年)にマドリッドの王立造幣局で製造されたものです。
 全長11.4cm、最大巾員7.4cmの惰円形で、掘り出す時二つに割れたものと思われ現在史料館にあります。
仏の谷
仏の谷  萱瀬ダム下の山中の急斜面を登って行くと岩穴があり、ここが郡崩れの発端となったキリシタンの絵が隠されていた場所と言われています。
【地図を見る】⇒ 仏の谷 
大村牢跡(本小路牢)
大村牢跡(本小路牢)  慶安元年(1648年)本小路につくられました。俗にこの牢を公儀牢と呼んで、唐人牢を兼ねキリシタン囚人や、特別に幕府の指名によって捕まえた罪人を入牢させていました。万治年間、袋小路(こうじ)の牢が取壊しになったあと、一般の罪人もこの牢に収容しました。
【地図を見る】⇒ 大村牢跡 
オランダ牢跡
オランダ牢跡  御朱印船の船長として、海外貿易を行っていた浜田弥兵衛(やひょうえ)は、寛永5年(1628年)台湾のオランダ館に打入り、奪われていた商品をとり返したほか、オランダ大守の息子らを人質として日本に連れて帰り、付添人とも53名を大村と島原に分けて収容した。大村の牢屋は、現在の県営バスターミナルビルの所にあり、オランダ牢と呼びました。また、牢の横のV字形の溝をオランダ溝といいました。浜田弥兵衛の碑は大村公園の中に建てられています。
【地図を見る】⇒ オランダ牢跡 
大村市原口郷出土のキリシタン墓碑 県指定有形文化財
大村市原口郷出土のキリシタン墓碑  上部に花十字、下部には欧字で(BASTIAN・バスチャン)(FIOBV・ヒョウブ) の陰刻がある板碑式墓碑で、このように霊名と俗名を二段に記した墓碑は他に例をみません。鬼橋町より出土したもので安土桃山時代〜江戸初期ごろの相当な地位にあった人物の墓とと推察されます。高さ50.3cm、最大巾員68.5cm、厚さ2.5〜4.5cm半惰円形で、現在史料館に保管されています。
宝生寺の教会跡
宝生寺の教会跡  御やどりの聖母の教会を永禄11年(1568年)18代純忠が建立したが、元亀3年(1572年)三城(さんじょう)七騎ごもりの時焼けたので、天正2年(1574年)旧宝生寺の脇に建立されました。領内でもっとも大きな教会堂で、場所は三城々跡の前の田の中にありました。純忠の遺体は最初ここに葬られました。戦前まで、泣きびす山という塚があって、温石の五輪塔などがあり、殿様の墓とのいい伝えもありました。
【地図を見る】⇒ 宝生寺の教会跡 
   


大村市観光振興課
〒856-8686 長崎県大村市玖島1-25 TEL. 0957-53-4111 FAX. 0957-54-7135
お問合せ:kankou@city.omura.lg.jp