文明6年(1474)大村氏16代純伊(すみこれ)は、大村領におし寄せた島原の有馬勢2000人の大軍と中岳で合戦しましたが、味方の寝返りもあり、大村方の将兵の多くは壮烈な戦死をとげました。
純伊は危く難を逃れて唐津沖の玄海の孤島加々良(かから)島に落ちのびました。そして6年後の文明12年(1480)、渋江公勢(きみなり)らの援軍を得て大村領を奪回し宿願を果たしましたが、このときの領民の喜びようは大へんなものでした。
領民たちは、領主、将兵を迎え、早速食事の用意にとりかかりましたが、あまりに突然のことで食器が充分揃わないため、とりあえずもろぶた(木製長方形の浅い箱)に炊きたてのご飯をひろげ、その上に魚の切り身、野菜のみじん切りなどをのせて押さえたものを食前に供しました。
将兵たちはこれを脇差しで角切にし、手づかみで食べたといわれ、これが大村寿しの起こりと伝えられています。
以来大村地方では、祝いごとや珍客を迎えるときなどは、必ず大村寿しをこしらえることが習わしとなり、武家、町人、百姓それぞれに寿しの作り方が家伝として伝えられました。
寿しおけは、嫁入り道具に欠かせないほど大切なものでした。
500年を経た今も、その独特な製法は昔ながらにうけつがれ、風味ある角寿しとして有名です。 |