私たち使節団の旅は、禁教によって思わぬ方向に進みました。関白秀吉様の追放令によって帰国できませんでした。
やっと、インド副王の使者ということで帰国が許されましたが、大友宗麟(おおともそうりん)様も大村純忠様も亡くなっておられ、キリシタンにとってきびしい時代となっていました。
今から4人のその後の人生について、振り返ってもらいましょう。
伊藤マンショ
天下統一した豊臣秀吉様にお会いしました。
持ち帰った楽器を演奏したら、とてもよろこんで、アンコールもしてくれたんです。
家臣にならないかと誘われたけど、教会の大事な仕事があったのでお断りしました。
JR大村駅前の大村市立図書館に隣接する、天正夢広場にある時計のカラクリ人形は、この時の演奏の様子を表したものなんだ。
千々石ミゲル
帰国して、しばらくしてから仲間のところを去り、大村喜前様にお仕えしました。いろいろ考えてキリスト教をやめて、喜前様にキリスト教が危険なことも進言したけど、その後、なぜか大村を追放されて有馬などを放浪することになりました。
最近、諫早市伊木力で僕のお墓が発見されたよ。
原マルチノ
語学が得意だったぼくは、司祭になって布教しながら、ほん訳と出版も行ったんだ。日本での布教にとても役に立ったよ。
でも、宣教師は海外へ出て行くようにと命令があったので、マカオへ渡って、くらしたんだ。
死後、マカオのセントポール大聖堂の地下に埋葬された。ここには、ヴァリニャーノ神父の墓もあるよ。
中浦ジュリアン
司教になって布教をがんばっていたけど、だんだん禁教がきびしくなってとても大変だった。
日本を去るよう命令があったけど、布教のため密かに残って活動を続けたんだ。
でも捕まってしまい、長崎の西坂でキリスト教をやめろと厳しく責められたんだ。
信仰をやめる人もいたけど、僕はあきらめなかった。だって僕はローマヘいったジュリアンだったからさ。
● 時は流れて約300年後・・・
禁教の江戸時代、少年使節のことは多くの人から忘れられていました。
しかし明治の時代になって、政府の外国視察団がヨーロッパに渡った時、自分たちが日本初のヨーロッパ公式訪問団ではなく、はるか昔の戦国時代に少年使節があったことを知り驚きました。
少年使節は長く記憶され、日本は高度な文明国として知られていたのでした。