1549年にザビエルによって伝えられたキリスト教は、戦国時代の日本に広まり、キリシタン大名の誕生や、少年使節が派遣されるまでに活性化しました。
しかし1587年に豊臣秀吉が伴天連(ばてれん)追放令を出すと、キリスト教は禁止の方向へと進んでいきます。
キリスト教信仰を禁止することをキリシタン禁教といいます。
続く徳川幕府は、しだいに禁教をきびしくし、神父の国外追放を強化し、信者にはキリスト教を捨てさせて、仏教徒へ変えさせました、さらに教会やキリシタン墓を破壊するなど徹底的な、はく害が行われ、禁教による死者も多く出ました。
明治時代初めまで禁教は続き、キリシタン時代の記憶は消えていきました。
●なぜキリスト教は禁止されたのか。
- 教会領になった長崎の様子から、ポルトガルやスペインがキリスト教を使って、日本を征服しようとしていると思われました。
- キリシタンが古くからのお寺や神社を破壊しました。
- キリスト教の神だけをうやまう教えが、日本の支配者につごうが悪かったのです。
●大村出土のメダリオン
16世紀にスペインでつくられたもので、禁教時代の家老の墓から発見されました。
(長崎県指定有形文化財)
●豊臣秀吉の伴天連追放令(原本蔵 松浦資料博物館)
● ティセラ「日本図」(大村市教育委員会蔵)
鉄砲の登場は、戦国時代の戦いに革命をもたらし、織田信長などが鉄砲を効果的に使って戦いに勝利をおさめました。
全国の戦国大名たちが鉄砲を競い合って入手しようとしました。
●禁教前の大村領では・・・
純忠をはじめ、家臣、領民のすべてがキリシタンになりました。寺や神社は破壊されたり、教会として使われました。
純忠が開いた長崎は、協会領になっていました。
大村領は日本で最もキリスト教の盛んな所だったのです。
禁教の原因の多くが、大村領で起こっていたんだね。
●厳しい禁教の時代
キリシタン禁教を成功させなければ、大村藩はとりつぶされる運命でした。
キリスト教をなくすため、全国に先がけてきびしい禁教が行われました。
●本経寺
禁教後、仏教の復興のために建てられた寺。
大村家の墓所があります。
寺や神社の再建
仏教を再興するため、各村に寺や神社を建て直しました。本経寺はその中心となる寺です。
仏教の信者となってキリシタンではないことを証明しました。
●郡崩れ史跡 (胴塚)
信者の復活を恐れ、首と胴を別々に埋めたのが首塚と胴塚です。郡崩れ関係の史跡は多く残されています。
潜伏信者の発覚 「郡崩(こおりくず)れ」
崩れとは、隠れていたキリシタンが大量に見つかることです。
郡地区を中心に隠れてキリシタンを続けていた約400人が処刑される大事件となりました。
●乾馬場町出土の花十字紋瓦
●大村市出土のキリシタン墓碑(長崎県指定有形文化財)
禁教時代の信仰に使われた可能性があります。
石垣の中から見つかった墓石です。
キリシタン墓の破壊
多くのキリシタン墓が壊された中、隠された墓石もあり
ました。