日本にキリスト教が伝わったのは約450年前。
以来、宣教師たちの熱心な布教活動が実を結び、信者は増加し、大村純忠のように戦国武将にもキリシタンとなるものがあらわれました。
そのような中、イエズス会のヴァリニャーノ神父はさらなる日本布教のためには日本人神父の育成が必要であると考え、日本人がヨーロッパ世界のすばらしさを理解させるために4人の少年たちをローマへ連れて行くことにしました。
そしてもう一つの目的は、日本布教の成果を教皇(きょうこう)・貴族にアピールし、活動資金の増額をお願いするためでした。
● 肖像画発見!
2005年に教皇グレゴリウス13世のおいソリア公ジャコモ・ボンコンパーニ家の子孫の屋敷(ローマ)で、天正少年使節正史の伊東マンショ(上:伊藤マンショ肖像画 長崎歴史文化博物館蔵)と、インドからヴァリニャーノ神父に代わって使節を引率したメスキータ神父(下:メスキータ神父肖像画 長崎歴史文化博物館蔵)の肖像画が偶然発見されました。
使節団の中には四少年をサポートするために他の日本人もいました。
【コンスタンチノ・ドラード】
印刷技術を学び、日本の印刷の祖となりました。
【ジョルジェ・デ・ロヨラ】
四少年が長いヨーロッパ滞在(たいざい)で日本語を忘れないための日本語教育係。ラテン語が得意で通訳の役割もつとめました。
二人とも諫早出身の人。
航海はとても危険でしたが、ぶじポルトガルに着いた四少年はローマまでの旅路で西洋の文化にオドロキ通しでした。
日本人で初めてヨーロッパを公式訪問(こうしきほうもん)し、日本を西洋に知らしめることに成功した彼らは、日本でのキリスト教の発展を夢みていました。
しかし、日本では1587年に豊臣秀吉がキリスト教をきらって、宣教師を日本から追い出してしまいました。
帰国後の彼らを待っていたのは、栄光ではなく苦難(くなん)への道だったのです。
●大村純忠がイエズス会総長にあてた手紙
(原本蔵 京都大学総合博物館)
内容は、おいの千々石ミゲルを行かせるので、ローマ教皇に謁見(えっけん)できるように依頼しています。
●少年使節の復元衣装(長崎玉成短期大学 蔵)
当時の新聞などの資料を参考に復元されました。
1582年に出発した彼らが帰国したのは1590年。
じつに8年5ヶ月の月日が過ぎていました。
12、3歳だった少年たちは立派な青年となっていたので、出迎えにきた大村喜前(よしあき)(純忠の子)たちは、お互いに相手の顔がわからなかったそうです。
その後、大村に招かれて10日間ほど滞在しました。